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カフェパウゼをあなたと

コーヒー片手に語らいを!わたしと、みんなと、そしてあなた自身の過去・未来と。

実りある研究会から「発話」と「発言」の間を考える

「内向的な人が秘めている力」というTEDスピーチより

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内向的な人が秘めている力
スーザン・ケインさんの有名なスピーチですから、ご覧になった方も多いでしょう。(以下、リンク先の青木靖さんによる訳を引用します。)

そして私たちはみんな、極端な内向から極端な外向までの間のどこかにあたります。内向的・外向的という言葉を広めたカール・ユングさえ、純粋に内向的な人や純粋に外向的な人というのはいなくて、たとえいたとしても精神病院の中だろうと言っています。内向的と外向的のちょうど中間というような人たちもいて、両向型と呼ばれています。彼らは両方の良い面を併せ持っているように見えます。でも多くの人は、自分を内向的か外向的かのどちらかだと思っています。

私が言いたいのは、社会として両者をもっとうまくバランスさせる必要があるということです。陰と陽のように両方必要なのです。・・・

・・・科学や経済といった領域で私たちが今直面している問題は非常に大きく複雑で、解決するにはたくさんの人が手を携え協力する必要があります。私が言っているのは、内向的な人に自分らしくやれる自由をもう少し与えたなら、彼らはそういった問題に対し独自の解決法を考え出してくれる可能性が高くなるということです。・・・

スーザン・ケインさんがいうとおり、完全に内向的な人も、完全に外向的な人もいませんが、どちらかが得意・好きという人はたくさんいます。そして、内向的寄りの人が暮らしにくい状況があるのも事実です。それではもったいない。この問題を頭の片隅においていたら、研究会で考えていたことと非常に近かったため、はっとしました。

実りがあった研究会には2種類の質問者がいた

法科大学院から研究大学院へ進学し、本格的に研究者養成コースに在籍するようになって、大きな変化のひとつは「研究会に参加できる」ということでした。「教わる」「学び取る」ことに焦点を当てる授業とは異なり、研究会は研究者同士が互いに切磋琢磨する場所です。最初の1年間はとにかくたくさんの研究会に出て、そして自らも報告しました。一年が過ぎ、研究会ノートで取ったメモを読み返すと、「勉強になった」「新しい知見が生まれた」など、私が主観的に実りがあったと思う研究会では、質疑応答の場面で大きく分けて2種類の質問者がいたことに気がつきました。

1.質疑応答冒頭に:密度を上げる質問・下げる質問

報告者が一通りの報告を終えて、いよいよ質疑応答に入る。仮に研究者Aとしますと、彼/彼女は気づいたことをほおりこんで議論の密度を上げ下げして、場で共有するための質問をします。

仮に報告が稚拙で密度が足りない場合には、その密度を引き上げるための質問をします。「この部分はどういうこと?もう少し説明してください」と。報告者は「それについてはまったく考えていない」ということはまずないので、なんとか答えることができます。多くの場合は報告に取り入れるのを忘れていたり、重要度が低いと誤ってしまったために密度が足りなくなっていることが多いためです。

逆に、報告者が参加者を置いてけぼりにするくらいに密度の濃い話をしたときは、密度をあえて下げるため、「初歩的な質問で恐縮ですが・・・」となどと断った上で、本質を理解するために必要な前提知識を報告者自身に説明してもらうための質問をする。そうすると、やりとりをきいている他の参加者も、ようやく問題設定のフィールドに降り立つことができるようになります。

2.質疑応答後半に:密度をあらかじめ上げてある質問

質疑応答も一段落したあと、おもむろに手を上げる人がいます。あるいは、司会がその熟慮している顔をみて、思わず話をふる相手がいます。この方を研究者Bとしましょう。彼/彼女は、慎重に言葉を選びながら、そして質疑応答で出てきた議論を踏まえて、ずしりと響く質問をします。この質問の答えは、だれもその場では答えられないかもしれません。しかし、だからこそ、この報告のもつ大きな意義や、これからの展望を示すためのキークエスチョンになっていることが多いのです。

両方があるとうまくいく

どんな研究会でもいえることなのですが、その場にいる全員がそのテーマについて専門家ということはそうそうありません。報告者が一番詳しいことがほとんどです。それゆえ、場で議論を共有するための質問がはじめのほうにきて、この場だけで終わらせない質問が後半に来ると、本当に実りのある研究会になります。多角的な意見が飛び交い、盛り上がり、そしてただ面白かったでは終わらない研究会になります。そうでこそ、その場にいる全員の時間を投入した価値がある、というものです。

このふたつの違いはなんだろう

もちろん、研究会では研究者AでもBでもない人もいます。報告終了直後の早い段階にものすごく密度のある質問をしてしまう超人や、あるいはまったく発言をしない人も。これらの方から学ぶのは色々と困難がありますので、本稿では研究者Aと研究者Bの「発話」のモードについて考えてみたいと思います。

対話の前に「発話」を

思考→「発話」→「対話」

2つの違いを考える前に、このブログで用いる「発話」という言葉が、通常の意味より広がっているので、その点を説明させてください。
以前のエントリで、「対話とは時を超え、立場を超え、ときには自分自身ともできる、建設的な意見交換」だと定義しました。
「対話」を大事にしたい - カフェパウゼをあなたと
しかし、対話のためには、「発話」が必要です。自分自身と対話するときでさえ、ただ頭の中でこねくり回しているだけでは前にすすめない。そこで、「頭の中にあるイメージを、言葉(や絵や音楽など)の形で、外界に刻みつけること」を発話と定義します。とにかく、頭の中というブラックボックスから引っ張り出してこないことには、何も始まらないのです。研究会の例でいえば、発言そのものの一歩手前に、質問者の頭から引っ張り出してくる瞬間がある。それが「発話」の瞬間です。自問自答のためには独り言をつぶやいても良いですが、メモを取るのが一般的でしょう。

「内向的な人」の意味を確認しよう

その上で、冒頭のTEDスピーチに戻りますと、ケインさんが定義する「内向的」とは、以下の通りです。

その偏向がどんなものか把握するには、内向的なのがどういうことか理解する必要があります。これは内気とは違います。内気というのは社会的に判断されることへの怖れです。内向的であるというのは、社会的なものも含め、刺激に対してどう反応するかということです。外向的な人は多くの刺激を必要としますが、内向的な人はもっと静かで落ち着いた環境にいるときに、生き生きとして能力を発揮できるのです。いつもそうとは限りませんが、多くの場合そうだということです。だからみんながその才能を最大限に発揮できるようにするには、その人に合ったレベルの刺激の中に身を置く必要があるのです。

刺激に対してどう反応するかが違うのだから、「発話」のレベルでは内向的であるか外向的であるかは関係ありません。一人で読書をしながら、メモをとったって立派な「発話」なのですから。「発話」のあとに、あるいはほぼ同時に、他人とコンタクトを取りに行こうとすれば外向的ということになるんでしょうし、そうではない場合は内向的だと見なされるでしょう。

「発話」と発言の間にタメはあるか?

おまえはどちらなんだ、といわれると当然前者

そろそろ、研究会での質問者の話に戻りましょう。研究者Aのスタイルも、研究者Bのスタイルも、実りある研究会のためには欠くことができません。しかし、両者の「発話」から発言までの時間には大きく開きがあると思います。研究者Aは、「思ったことをすぐに口にするタイプ」と評される事もあるでしょう。「よくわからないからとりあえず聞く」という態度。それが密度を上げ下げすることにつながり、議論を場で共有することに資するものであれば、うまくいくのです。私は、最初このスタイルに魅せられて、2年目以降はそのようにふるまう努力をしました。

タメをつくる質問者への憧れ

しかし2年目の終盤、「思ったことをすぐ口にすると、色々と損だ」ということに気がつきました。ひとつは、他人のコメントを聞く機会が減ってしまうこと。自分が発言している間は自分しかしゃべらないんだからそれは当然です。もうひとつは、自分が発言している間の記録がとりにくくなること。自分がどんな発言をしたのか、イマイチ思い出せないノートを前に、絶望することもしばしばありました。そうなると、もう一つの質問のかたちに憧れます。彼ら/彼女らはどうしているんだろう?そこで、メモの取り方を見直して、研究者Bのようにふるまう練習をしました。(これについては別稿に譲ります。取り急ぎ、参考資料だけ掲げると、

3本線ノート術

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考えがまとまる!三本線ノート実戦活用術

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です。)
ここで大事なのは、「後から質問するといっても、発話をおろそかにしない」ということです。とにかく、気づいたことのメモをとる。その上でどういう建設的な議論が出来るかを考える。そしておもむろに手を上げるのです。まだうまく身についたとはいえないですが、試行錯誤しています。

安易な二分法は危険だけれど、それでも伝えたいこと

だれしも両面を持っているが、どちらが「得意」「好き」はありそう

ケインさんがふれているように、完全に外向的な人・内向的な人はいません。総じて研究者Aのタイプは外向的なひとが、研究者Bのタイプは内向的な人が多いように思いますが、振る舞い方の問題なので、そうとも限りません。それでも、どちらか一方が得意・好きであるという傾向はあるでしょう。それを前提に、読者の皆様に伝えたいことがあります。

「発話」と「発言」を区別しよう

主に内向的な人に伝えたいことです。あなたが発言が好きではない、としてもいっこうにかまいません。しかし、発話をおろそかにしないでください。頭の中から一度取りだしてみなければ、自分自身からのフィードバックも減ってしまいます。一旦書いたものをもう一度眺める。そうすると、他人なしでも「対話」は可能です。そして、できれば、これはという人を見つけて「発言」してみてください。発言の過程そのものからも新たなフィードバックが得られますし、相手の協力があれば、次の発話につながる質問がもらえるかもしれません。仮にもらえなくても、「どう発言すればいいだろうか」という自問自答自体が次の発話を誘発します。

人の内側にある世界を尊重し、耳を傾けよう

主に外向的な人に伝えたいことです。ケインさんのいうとおり、現状の世界は内向的な人に耳を傾けることがないためにかなり損をしています。対話相手が内向的な性質を持つ場合は、「ちょっと自分黙れ」というターンを設けてみてください。あるいは、「どんなふうに質問したらこの人は内部の世界から「発話」を引っ張り出してくれるだろうか」と考えてみてください。
また貴方自身も、自分の内部にある発話、とりわけ自分の発言の一歩手前にある「発話」や発言している最中の「発話」に耳を傾けることを忘れていて、ずいぶん損をしているかもしれません。とにかく外の世界に出すことは大事ですが、それを刻みつけること、熟成させることもお忘れなく。

モードを共有する

これは、外向的な人と内向的な人が出会ったときに特に気をつけたいことです。研究者Aが、「議論の広がりを持たせたいから、密度を上げる前に思いついたことを言う」というポリシーで話しているのに、「議論のレベルを高くしたいから、密度を自分の中で上げてから発言する」というポリシーの研究者Bと対話するとしましょう。お互いにキャラクターからポリシーを認識していれば問題は起きませんが、初対面だとそうもいきません。また、旧知の仲でも、このすれ違いでお互い損する可能性があります。自分のポリシーを勝手に相手の発言に適用してはいけません。最適な方法は、どういうポリシーで発言しているのかを共有することです。今日は雑談モードなのか、発想を広げるモードなのか、それとも決め球を投げ合うモードなのか。互いのポリシーを交換しあうのも面白いでしょう。完全に外向的・内向的な人はいないのですから。

発話の受皿を増やすという手も

私自身も内省するときにどうしたらいいか常に悩んでいますが、とりあえずは発話の受け皿を増やしてみました。自分ひとりで出来る方法に限っても、切取りメモ、アナログノート、パソコンでのメモ、スマートフォン、Word、Excel、ツイッター、Facebook、そしてブログ。この中には、発話と同時に発言をしているモノもありますね。頭の中から引っ張り出すモノによって出てきやすいものが変わるということは本当に面白いです。また、自分以外を巻き込む方法と自分だけで出来る方法とを組み合わせるのも面白いです。これについてはまた別の記事で。

長くなりました、それではよいカフェパウゼを。