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「法学部における「論文」教育について考えよう #論文教育」を振り返ろう

更新再開第一回目は、9月上旬の「法学部における「論文」教育を考えよう」という企画を振り返ることにしましょう。皆さんご協力ありがとうございました。

この企画は、ちょうど自分が論文を執筆している最中ということもあって、感慨深いものになりました。
論文を書いている最中にインターン生相手にリサーチについての講師をやったために、「結局今自分がやっていることは何だろう?」と考え込んでしまい、「どうせなら皆さんの意見を聞いてみよう」と思って始めた企画が、思いの外ご協力をいただいて、様々な問題点をあらわにしています。

前置き

法学部以外の方には何のことやらわからないかもしれないので補足させていただきます。法学部には卒論が課されていない場合があります。少なくとも私の出身校はそうでした。そうすると、ゼミなどの例外を除いて、研究向け、リサーチの練習としての論文を書く機会はあまりありません。

しかし、その代わりに法学部生を待ち受けているのは、法科大学院入試や公務員試験など、各種の論述式試験です。
この試験形式のことを差して、「論文式試験」と言い表す慣行があります。司法試験もそうなっています。そのため、法学部生にとって自分が書く物として切実なのは、リサーチとしての論文ではなく、「論文式試験」ということになります。

二つの違いは?

今回、最初の質問としてこのようにツイートしました。



これには実に様々な回答が得られました。
一番良くまとまっているのはおそらくこの回答です。

研究論文には独自性と作法の遵守が求められる。解説ならば独自性はいらないけれど、作法は必要。現状の試験のありかたでは時間制限と参照物制限がある。違う形になる。実に的確な指摘だと思います。

法学部特有の事情?

また、学部生に研究論文が難しい理由に、「良い論文」の評価が学部生には難しいのではないか、という指摘もありました。たしかに、学部生のときは、良い論文も悪い論文も「わからない」という点であまり違いがなかったかもしれない・・・とにかく難しくて。一度興味が出てしまえばとことんつきあえるんですが、そうなると、「マニア」化してしまうんですよね。

それでも地続きだと信じたい

しかし、私は地続きの要素もかなりあると考えています。
本当によい論述式答案は、「自分で疑う」ことができるからこそ、疑う相手を説得するだけの理由をつけているのではないか。単にとある高名な先生の説を盲信しているだけでは出せない要素があるのではないか。
司法試験は残念ながら不合格で、その後の再受験はしないまま受験資格を失った自分がいうのも何ですが、時間制限と参照物制限以前の問題で躓くケースが多いのではと考えます。「論理の作法」「考え方の筋道」という要素は、即興型でも熟考型でも求められる。これは、大学のサークルで即興スピーチを学んだときに教わったことです。もちろん、安易なアナロジーは禁物ですが・・・。

自分のためにも、みんなのためにも

この問題、考えれば考えるほどよくわからなくなってくるのですが、折に触れて考えていこうと思います。結局、教えることは学ぶことのはずで、「論文ってなんだろう」「論文を書くことで身につけられる力は何だろう」「なんのために学部生が「研究」するんだろうか」という問題は、教育の問題というよりは研究者とは何なのかを定義付けるからです。別に、大学に所属しているから研究者というわけではないし、その逆も。

他学部の話もきいてみたい

幸いにして私は配偶者が「理系研究者」のサンプルを提供してくれていますが、他学部や、専門学校ご出身の方の意見もうかがってみたいです。

オチがない真面目な話になりました。それでは、よいカフェパウゼを。