「どうせやるなら二毛作」時間とレイヤーの複数掛けを目指すために
座右の銘:「どうせやるなら二毛作」
最終的に研究か教育に回収できるならば自己満足だけにならないので、どうにかそういうサイクルというかシステムを構築しておきたいところです。私の座右の銘は、「どうせやるなら二毛作」です。
— ぱうぜ (@kfpause) 2013, 9月 29
日曜日の朝というのは自由な発想をしていることが多くて、自分でも思いも寄らないことをツイートしたりします。
「どうせやるなら二毛作」。
これ、自分の人生哲学になっているような気がするので、今ここで考えていることを形に残しておくことにしましょう。
リソースが大量かつ濃密な人たち
世の中には、とんでもない人達がいます。人に一つの基準だけで勝ち負けのランクをつけるなんておこがましいし、ばかげているのはかつて書いた記事(スカウターからスタンドの世界へ - カフェパウゼをあなたと)でも触れたとおり。多様な価値観と可能性の世界で、ランク付けなんて意味をなさない。
しかし、どうにも感じてしまうことがあります・・・それは、リソース量のちがいです。
世の中には、普通の人が持ち得ないような熱量を秘めている人がいます。「法学研究者らしく定義付けしろよ」といわれると困ってしまうのですが、ほんともう、なんか「できることの量」が違うんですよ。そして、量の多さが質の違いを凌駕している。
・・・そういう人達を、まあ、Sランクとでもしましょう。マンガやライトノベルの世界でよくある「S級ハンター」とかそういうイメージの、Sランク。
その中には、有り余るリソースを一点投入するとかえって軋轢があるから、とでもいうのでしょうか、全然別職種の仕事を同時にこなしてみたり、完全匿名の筆名を何個も抱えて活躍している人もいます。
自分に何が出来るだろう
ここ数年でようやく「研究者」を名乗れるようになったことと関係しているのでしょうか、実に様々な方々とお仕事をする機会にめぐまれました。また、友人関係やSNS関連でも様々な方々とコラボレーションする機会にめぐりあいました。そうしたときにやはり感じてしまうのです、「ああ、自分はSランクの人々には普通のやり方ではかなわない」、と。
勝ち負けにこだわらない私ですが、貢献度として自分がどこまでやっているのか、果たせる役割を負えていないのではないかということは気にしています。
特に、(これも運の要因が強いですが)本来は貸与である奨学金を事後的に給付にしていただく返済免除という仕組みを適用してもらったので、単に国立大学で学んだという以上に、直接的に税金が投入されているのです、私の人生には。
なにかしなければいけない、しかしそのままではSランクの人々が行う貢献度にはかなわない。
多毛作のすすめ
時間管理のステップとして
そんな折、素敵な発想に出会いました。
人生の舵は自分で切れ!あなたの10年後は今週の33.6時間で決まる (impress QuickBooks)
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この電子書籍の第八楽節 STEP4:自分時間を夢に昇華する3つのアクション
(電子書籍でのサイテーションを示すやり方は難しいのですが、ここでは目次で場所を示します)で、著者のJMatsuzaki氏(友人ですので、以下、親しみも込めて、愛称のJMと書きますね)は、自分の時間を増やしていくための方策について、
具体的にどのような改善策を打ち出すべきかですが、大きく以下の3つに分類できます。
1.分類を入れ替える
2.実行順序を入れ替える
3.複数の分野を同時実行する
と述べた上で、最後の3についてこのように述べています。
3つ目の「複数の分野を同時実行する」は最も難しい取り組みですが、実現できれば最も高い効果を発揮できるものです。ここでいう分野とは、「家族」や「健康」や「社員」など、1st Burnerにて夢を分類した分野のことです。勘違いしやすいのですが、1つの行動が1つの分野に貢献するとは限りません。1つの行いで複数の分野を前進させることができます。
そして、一人でするランニングを、家族でのバドミントンに切り替えることで、「健康」だけの時間を「健康」・「家族」という複数分野に貢献する時間へと変えることを例としてあげています。
レイヤーの重ね合わせ
また、佐々木俊尚氏の「レイヤー化する世界」における、レイヤーの重ね合わせも、私に強いインスピレーションを与えます。
レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)
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これについては倉下忠憲さんが既に図解で解説している記事がありますから、コレに加えて語りたいことは別記事にゆずります。
R-style » 「レイヤー化する個人」がもたらすもの
自分が持つ役割は複数あり、同時に満たす"差し手"がある
これらから導き出された知見を、私なりにまとめると、
「自分が持つ役割は複数あり、複数同時に満たす"差し手"がある」
ということになります。
イメージしているのは、ルーレットでいう「複数賭け」です。一枚のチップで、特定の数字だけではなく、複数の数字に賭ける方法です。ルーレットの世界ではそういう賭け方は配当が少なく設定されています。リターンが返ってくる可能性が高いから、ですね。
しかし、「時間の複数掛け」においては、JMが言うように、複数の分野を同時に満たすことは難しい。さらにいえば、佐々木俊尚氏の著作とそれに対する倉下忠憲氏の書評が示すように、複数のレイヤーを見つけることすら難しいかも知れません。
しかし、一度見つけてしまえば、一つのチップで2つ、3つのリターンが返ってくる・・・そんな気がしています。
時間は使い続けることしか出来ないし、限られた量しか配分されない。
そうだからこそ、戻ってくる可能性がある道筋を複数用意したい。
「畑を重ねる」ために
重ねる事が難しいなら、自分で「重なる畑」を作ってしまえばいいのではないか。今はそう捉え直しています。自分の本職である研究と教育。そして、自分が余暇としてやりたいと思っているブログやSNS。こういう複数の部分を、どうにか重ね合わせながら生きていくことができないか。それを模索しているところです。
そして、「重なる畑がないなら作ってしまおう」ということを、考えています。
連作障害をどう回避するのか
多毛作の例えは、もうひとつ、発想を広げるステップになります。それは、「連作障害」の存在です。多毛作で作物を作るときのポイントは、作物Aで使ってしまった地力を、作物BやCの栽培時に回復させること、でした。これは、むりやり「畑」を重ねたときに出てくるであろう様々な障害の可能性を想起させます。単純にひとつひとつやっていくことと、どう違うのか。ちゃんと回収出来る投資になっているのか。ブログやSNSをやるときは、それを考えながらやっているところです。
どうせやるなら二毛作。こうやって書いてみるとまだまだ煮詰まった考え方ではありませんが、引き続き「座右の銘」に仮置きして頑張っていこうかと思います。
朝晩が冷えるようになって、温かいお茶が嬉しい季節になりました。ゆっくりとカフェパウゼを。
「文章をはき出すとき」と「推敲・編集するとき」を分けてみよう
同じことを4回聞かれたから書きますよ
もうすぐ10月・・・12月提出の修士論文や博士論文を抱えている人からすると、9月中にどこまで出来るかが一つのポイントになります。立て続けに3人くらいの方から、「どうしても進まない日が何日も続くんです、どうすればいいでしょう」というご相談を受けました。
とりあえず、最悪の事態を避けるために、「発声練習」さんの以下のエントリ及びそこの関連リンクを見ることを薦めました。
卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう - 発声練習
そして、どういう風に進めているのか、どういう段階なのかを聞いた上で、自分が博士論文を執筆するときに一番気をつけていたことを話したので、ここでも紹介してみたいと思います。
一番大事な気づき:「思いつく人」と「直す人」は違う人
長文になることがわかりきっている文章を書くときに、いつも見落としてしまうことがあります。それは、あまりに長い文章だと脳内メモリだけでは整序立った文章にすることは難しい、ということです。
ひらめいて、思いついて、話し始めるときのわくわくした人と、しっかりして、落ち着いて、直し始めるときの少し醒めている人を同時に動かすことは難しいのです。
これが、1000字、あるいはせいぜい5000字くらいの長さのブログ1エントリー分であれば、書いたり戻ったりしながらでもなんとか書けます。文章を紡ぎながら編集も一緒にやってしまうというスタイルですね。
しかし、5000字の原稿を10枚、20枚と組み合わせていかなければ書けないような長さになると、どうしても編集担当要員が必要になります。相互の文章の並び順とか、適切な脚註の配置などは、ひらめいているときのわくわく感を持ち続けているとミスしやすいんですよ。
意図的に作業を分けよう
そうであるならば、意図的に作業をわける事が必要になります。自分が博論を書いたときに、指導教員と相談しながらやったやり方は以下の通りです。
第一フェイズ:ひらめきを生かしながら、「もやもや」をとにかく紙に落とし込む
まずは、今考えていることをとにかく紙に書き出します。
あなたが論文を書いている途中の院生であれば、「この話題とこの資料は関連しているな」というような塊がいくつもあるはずです。あるいは、「大目次は出来ていて、この話題は第1章のどこかに入る」とか。
そういう状態でいいですから、とにかく書いてみましょう。
文章の並び順や脚註の細かいルールはあまり気にしないで、わかるように書いてみる。
前にちょっとやり方を紹介した「手書き→マインドマップ→テキストエディタ」というやり方もあります。
文章をモリモリ書くための4つのステップ - カフェパウゼをあなたと
これは編集のしやすさをも念頭に置いてますが、最初は、とにかく手書き(できるだけなめらかに書けるボールペンや万年筆をお勧め)で書き殴ったり、テキストエディタ(文字を打つ以外の機能があまりないようなもの)を使ってやってみましょう。
頭の中でもやもやしているだけでは、誰にも見せることができません。どんなに親切な指導教員でも、見ることができない文章を添削することはできないのですから。
第二フェイズ:意味付けを捉えなおし、並び替え、文章を整えて編集しよう
うわーっと第一フェイズを行うと、とにかく材料だけはそろいます。あとは、コレを料理していけばいいのです。
手書きであれば、ペンを色ペンに持ち変える。テキストエディタであれば、アウトラインが使えるソフトを起動します。そして、並び替えてみたり、重なるところをつないでみたり、脚註を整えたり・・・とにかく、手を入れていきます。
追加で新しく書きたくなったら?脇にメモ帳を置いておいて、アイデアベースでいいから書き付けておきましょう。編集脳になっているときのアイデアは、非常にメタな視点になっていることが多く、その文章の序文や結末に大きく影響することが多いです。
どこで人に見せるのか?
第一フェイズと第二フェイズを続けていくと、どうにかこうにか文章ができていきます。しかし、第二フェイズにまで達したものだけを見せようとすると、どこかでモチベーションが下がったりします。そこで、かなり切羽詰まっているときは、「とにかく第一フェイズでいいから持ってきて」と言ってくれる人を探して、極めて短期間に無理矢理にでも成果報告をする、というのをおすすめしています。
なぜって?・・・人に話すとものすごく進むことがあるからです。
書こうとして巧くいかないときは、改めて別角度での表現をしてみるとすっと見えてくることがあります。誰かに話そうとする、というのは、その点で非常に優れた「前への進み方」です。
研究ハックフォーラム・若手法学研究者フォーラムはそういう場を提供してます
このブログ記事の↓のほうにリンクが張ってありますとおり、私はふたつのフェイスブックグループを運営しています。そこで同好の士を探して、お互いの文章を見せ合うというのも一つの手です。ちょうど、科研費等の「作文」シーズンでもありますし、相互扶助をするにはピッタリの時期かも知れません。
このやり方につきあってくださった師匠にはとても感謝しています。師匠が、「とにかく1週間に5000字書いて持ってきなさい」と言ってくれなかったら、到底書き切れませんでした。「とにかく書いて書いて見せる」というやり方が功を奏することもあります。うじうじ考えて前に進めない日ももちろんあります。ノってきた日にモリモリ書いて反撃しましょう。
やっと涼しくなってきました。夏に悶々とした分を、少しづつ取り返していきましょう。
きっと書けますから。疲れたときには遠慮無くカフェパウゼを。
「なぜブログをやっているの?」と問われて改めて考えた3つのこと
「忙しそうなのになぜブログをやっているのですか」
「研究ハックフォーラム」と「研妻あるある」がらみでより親しくなったご夫婦からお会いしたい旨のお申し出をいただき、一通りご相談に乗った後に、旦那様(研究者)から聞かれました。
「ぱうぜさんはますますお忙しそうです。今なぜ、ブログを続けているのですか。続けるコツとかありますか」と。
このブログをやっている理由は過去のエントリでも書きました。
なぜ始めるのか? - カフェパウゼをあなたと
この記事をかいていたときはまだ博士論文を執筆している最中でしたので、余計に「ブログをしていることの言い訳」が必要でした。
(今だって、「直近一週間以内に〆切があるときはブログは控える」ようにしていますけれども。)
このエントリーで述べたことと多少重複しますが、上記の会合で述べた三つのポイントをこのブログにも書いておこうと思います。
その1:ブログはセーブポイントでありデータベース
まずは、上記エントリーでも書いていたとおりの理由です。
セーブポイントとしてのブログ
あのときは、「初心者の今」を記録しておく、ということを書きました。どうしても自分の考えは変化していくので、その時々に気づいたことを、その時々の感情と共に記録していくのであれば「今」しかない。上級者になってからでは見えないこともたくさん気がついているはずで、それを記録しておくべきであろう、ということでした。
質問データベース
また、自分の中でのブログポリシーとして、「同じ事を3回聞かれたり説明したりしたら記事にしよう」ということがあります。まったく同じ内容のことを3回話すというのは、その話に需要があるということですし、自分の中でも表現がこなれてきます。そうなったら、4回目以降は「とりあえずこの記事読んで、それでも分からないなら相談して」と言った方が、自分も相手も時間の節約になるはずです。なによりブログに置いておけば全世界どこからでもアクセスできますから、自分でも「前はどうしたっけ」と考えたとき、どこからでも見ることができて便利です。
その2:ネタ探し脳を持つ
ここからは一般的に言われていることも含めて改めて書いてみましょう。
アウトプット先があるということの幸福
常に何かを考えながら暮らしていると、色々なことに気がつきます。今はちょっとした感想や感慨を示すのに便利なTwitterなどがありますから、メモ的に「つぶやく」こともできます。しかし、やはりまとまった気持ちを残しておくためにはある程度の長さが必要になりますし、エビデンスを示しつつ書くためにはTwitterは不向きです(一部だけ切り離されて拡散してしまうことを禁止できない仕組み)。そうしたとき、まとまった文章を、自分以外の人の手を借りず、しかし自分以外の人にも読んでもらうスタイルでかき付けることができるこの場は便利です。
ブログに書いてしまえば「無駄」なことではなくなる
今日みたいな台風の日、予定がキャンセルになって、家でごろごろ・・・そんなときに降りてくる気持ちを書き付ける場所がなければ、今日一日なにも起きなかった(それはそれで幸せなことですが)ことになってしまう。そうならないように今パソコンを開いているのかも知れません。ただ思索しているだけでなく、書き付ける場所を持つことで、どうにか生産的な頭でいられるような気がします。
その3:「文章書き」を好きで居続けるために
その2の後半からなし崩し的に入っていますが、最後は「文章書きを好きで居続けるために」ブログを書いている、という側面についてです。
「モードの違う書き手」を自分の中に複数用意しておく意味
つい先日、7月に行った某講演について、後日談や補足に当たる記事を書いて欲しいという追加の依頼がありました。もちろん、論文でもいいとのことでしたが、共著者との関係から、堅苦しくない文章で、しかしややもすると間違ったメッセ―ジになりかねない部分についての補足をしようと試みました。
しかし、どういうスタイルで書くべきか、悩みました。・・・そうだ、このブログのスタイルで書いてしまえ。
そう思ってからは早かったです。要するに、伝えたいことを決めておいて、それに当たるような体験談を付け加えていくというスタイルです。厳密なエビデンスは求められない代わりに、読みやすさと親しみやすさが求められるという、この依頼にはピッタリでした。
(このお仕事は本名で受けていますので、公刊され次第そちらのペルソナのサイトでリンクを張ります)
このようなスタイルの依頼はかつてもありました・・・前職のメルマガで担当していたコラムがそうです。内容は割とマジメだけれども、論文ほどの厳密な脚註は必要ではない代わりに、広い読み手を想定するというような。こう言う文章の書き方の訓練に、ブログはピッタリです。
すぐに反応が返ってくる所も魅力
また、ブログの場合は、各種SNSとの連携をうまく使えば、すぐにレスポンスが返ってきます。論文だと査読がなかったとしても掲載までにはかなり時間がかかりますから、そうはいかないですね。レスポンスを得るまで時間が掛かるコンテンツを作りつつも、その合間に反応がわかるコンテンツを投下することで、文章を書くためのモチベーションを保っているという面があります。
つべこべ言わずにはじめてみては
こういう質問を受けた理由は、「やってみたいんだけどどうしていいかわからない」ということでした。いや、つべこべ言わずに始めてみては。どうしても、その人それぞれのやり方になるし、それで良いんですから。
研究会の打ち上げの後に、研究の話とブログの話を両方織り交ぜたカフェパウゼができて、とても幸せでした。これからもぜひ。
Twitter以前のブログはどんな感じ?「日記」から「あなたと」への変遷 #ブロガーサミット
ブロガーサミットで感じた「大きな変化」
ものすごいイベントでした
前のエントリーで予告したとおり、「ブロガーサミット2013」に参加してきました。
ブロガーサミット2013「さぁ、自分を発信しよう」8月24日(土)開催 Agile Media Network
公式のハッシュタグがありまして、
その熱気がまとめられております。
私も後半はかなりツイートしていました。プレゼントまでいただいてしまって感謝感謝。
(こちらは「カフェパウゼ」ネタとして、あとでレビューしてみたいと思います。ありがとうございました。)
「大きな変化」としてのパーマリンク
最古参のユーザーやサービス提供者から比較的最近ブログを始めた人まで色々な人が集まったサミット。一番印象的だったことは、「ブログが登場したことで変化したこと」についての古参ユーザーおよびサービス提供事業者からのコメントでした。
それは、パーマリンクが生まれたこと。
このおかげで、「ディープリンク」がマナー違反ではなくなり、記事に直接リンクすることを歓迎するようになったんですね。
あまり取り上げられなかった「ブログ」自体の大きな変化
これを聞いたとき、あーなるほどと思う反面、自分にとって一番の変化はブログ登場以後にあったなあと思いました。ブログという概念がいろいろなものを含むため、新しいサービスが登場して場になじんでくると、今度はブログの立ち位置が変化したのです。
今回はその話をします。
Twitterの登場でブログの立ち位置が変化した
会場にいたかなりの人数は肌身に感じていることであると思うのですが、
Twitterの登場で、ブログの立ち位置は大きく変化したと感じています。
「○○のホームページ」からブログへ、そしてTwitterへ
それまでは、
いわゆる「○○のホームページ」とブログ
の対比で捉えられていたものが、ブログの台頭により「ホームページ」は姿を消しました。
そして、新たにTwitterが登場したことで、今度はブログの立ち位置が変化することになったのです。
それまで、「ホームページ」との対比ではフローであると捉えられていたブログが、
より更新が簡易であるTwitterの登場と波及によって、今度はストックとして捉えられるようになったのです。
また、双方向性においても、Twitterのほうが即時性と簡便性、そして「流れていく作用」が強いことから、いわゆるスパムコメントや悪意のあるコメントによって苦しめられていたブログサービスからコメント欄が消えました。トラックバック文化もいつの間にか廃れていきました。
更に、「普通の人達の日常」がTwitterやFacebookなどに流れていったこと、またはてなブックマークなどのサービスによる拡散等も相俟って、ブログとして残ったコンテンツは「一記事で情報を提供するもの」中心になっていたように思います。
実例として再公開します
こういった変化を、Twitter以後のブロガーさんにお伝えするのは実はなかなか難しい。
そこで、Twitterが一般社会に認知された2009年(この時点をいつにするかは難しい問題ですが、津田大介さんの「Twitter社会論」の公刊が2009年秋ですので、それに従います)以前のブログと、それ以後のブログを比較すれば良いのではと思いました。
Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流 (新書y)
- 作者: 津田大介
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・・・ちょうど良いコンテンツがあります。私のブログです。
2005年から2008年にかけて、私ははてなダイアリーにて「Kaffeepauseの日記」というブログをやっていました。これがはじめてのブログです。
「日記」ということばは、そもそもサービス名が「はてなダイアリー」であること、また、ブログ以前の「日記サイト」へのオマージュを込めてつけたのだと思います。
そして、博士課程進学直前に閉鎖した後、
2012年から、現在ご覧になっている「カフェパウゼをあなたと」を始めたのです。
そのときには、もうTwitter以後のブログ世界に染まっていました。
「ブログを書いていたら、気がついたら研究者になっていた」・・・明日ブロガーサミット2013参加します
何がまちうけていることやら
明日、
ブロガーサミット2013「さぁ、自分を発信しよう」8月24日(土)開催 Agile Media Network
に行ってきます。
このイベントのもろもろについては既に色々な記事が上がっているのですが、私は主催者の徳力さんのこの記事にびびびっときました。
[徳力]なんで私はむやみやたらと無茶なイベントの企画ばかりしてしまうのか #ブロガーサミット
この後にも追加の記事が続いているのですが、この記事でのコメントが本当にツボにはまりました。
で、こういうフラットな場所での出会いって、結構後につながるんですよね。
なんて言うんでしょうね、あのイベント会場で知らない人たちが知り合って何か始まるんじゃないかという期待感というかなんというか。
会場の中でプチプチと新しい出会いによって生まれた何かが弾けてる感じというかなんというか。このイベントをきっかけに、何か面白いことが始まったら良いよなぁと言うあの感じ。
もちろん、何も始まらないかもしれないし、何も自分がイベントを企画しなくても誰かがやるとは思うんですけど。
やっぱり自分で企画したくなっちゃうんですよね。
つながることそれ自体に価値があるのか、といえば、それはない。
でも、誘発する場を作りたい、その魅力にとりつかれたという徳力さんのコメントは本当に心にしみました。
実は体調を崩しているので冷静に考えれば休むべきなんだろうけれども、何が待ち受けているのか見届けたい、その場にいたい。
ということで、ちょっと喉の調子をみつつ、会場にいます。
アイコンそっくりのけっこうふっくらした女性がいたらそれ私ですので、ぜひお気軽に声をかけてください。
たぶん、
「ブログを書いていたら、気がついたら研究者になっていた」
とかいいながらのたうち回っていますので。
それでは明日は会場でカフェパウゼをあなたと。
スカウターからスタンドの世界へ
「すべてのブロガーはスタンド使い」
いつも愛読しているLifehacking.jpにて、「すべてのブロガーはスタンド使い。」という名言が飛び出しました。
すべてのブロガーはスタンド使い。ブログを「テクニックの先」へ誘うプロ・ブロガー本2の魅力について | Lifehacking.jp
興味深い箇所を引用させていただきます。
先週、本書の出版記念イベントに行った際、コグレさんに突然マイクを渡されて私はすべてのブロガーは「スタンド使い」のようだ、という話をしました。漫画「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する個性的な超能力の、あれです。
テクニックをすべて忠実に実行したからといってすべてのブログが人気になるわけではありません。
むしろ、すべてのテクニックを尽くした先に、どうしてもコピーすることのできない、ブログを書いている人の個性や抗い難い魂の形が立ち上がってきます。そう、「スタンド」です。
あるブロガーはすさまじい速さで記事を繰り出します。あるブロガーは予測能力が半端ありません。かと思うと、テクニックはほとんど使わないのにぐいぐいと読ませる異様さやすさまじさを持ったブログもあります。
この能力は誰もがもっているものかもしれませんが、わかりやすく発現させてブログに反映させることができるひとはまれです。逆に、異様な能力はあるのに、効果的に広めることができずにいるという人もいるでしょう。
以前、堀さんとお会いしたときに直接伺っていた話だったのですが、改めて本人のブログで語られるとまた感動がわき起こってきました。
さらに、最近になってブロガー界隈だけでなく、私のリアル人脈のほうでも、スタンドについて語る機会がありました。今回は備忘録と堀さんへのフィードバックも兼ねて、その話をします。
大前提
鳥山明「ドラゴンボール」と荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」をご存知でないと納得いかないかもしれません。また、ご存知の方には「良くある評論じゃないか」と言われるかもしれません。同じようなことを言っている記事やコラムがあれば引用しようと思ったのですが、見つからなかったので、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
ジャンプ黄金期
1983年生まれ、満30歳の私にとって、ジャンプの黄金期のひとつといえばドラゴンボールのフリーザ編とジョジョの第三部が掲載されていた1991年頃です。やはり同じ事を考えている方がいらっしゃいました。
ジョジョの奇妙な冒険がドラゴンボールを超えた日 - ONLY ONE DIRECTION HOME 2012→2014
このフリーザ編と第3部は、両作品にとってもハイライトなわけですが、性質が大きく異なります。
ドラゴンボール=戦闘力とスカウターの世界
ドラゴンボールは、ときに「力のインフレが起きた作品」などと言われます。フリーザ編の一つ前、サイヤ人襲来編での特徴のひとつは、戦闘力を計測するスカウターの存在でした。片目を覆う機械でピピッと測ると、相手の戦闘力が見えるという優れもの。この機械が登場してからは、地球の戦士達が気を練ることで力が急上昇したりする場面が印象的な作品となりました。
そしてフリーザ編では、「私の戦闘力は53万です」と規格外の強さを述べるフリーザに対して、主人公である悟空たちがどう立ち向かっていくのかが描かれる、というわけです。
ジョジョ第3部の飛躍・・・波紋からスタンドへ
これに対して、ジョジョでは、第3部以降、第2部までの「波紋呼吸法」ではなく、スタンドが中心となります。上記の堀さんの説明にもあるとおり、このスタンドとは魂の形。スタンド使い同士は、お互いのスタンドを見ることができます。一人一人能力が違うスタンドが、背後霊のように浮いているという感じです。もちろん肉弾戦が得意なものもあるのですが、それに限りません。精神攻撃やゲームを生じさせるもの、そして時や空間を支配するものまであります。
ジョジョ第3部が単純な力比べから、スタンド同士の相性や知恵比べに力点を動かしたことで、ジョジョワールドはかなりの幅を持つようになりました。(個人的には日本の街が舞台となる第4部が好きです。日常に潜む怪奇とバトルと人間模様。)
現実世界は?
無理矢理現実世界に当てはめてみよう
この二つの世界の対比は、現実世界の見方を表すのにも有効だと考えます。他の誰かと競ったりするときに、自分はどちらのバトルだと思っているのか。スカウターをはめているのか、それともスタンド使いとして見ているのか。この違いによって、かなり見えてくる世界が違ってくるように思うのです。
とある恋愛相談にて
ある女性の友人からこんな相談をいただいたことがあります。
「彼のことは凄く好きなのだけど、自分が見合った人間ではないから距離をとろうかと思っている」と。
これには驚きました・・・家柄の違いとかならまだわかるのです(家族の理解のない結婚を前提にしたおつきあいは辛い、という意味では)。でも、そういう事情ではなくて、ただ単純に、「見合うか見合わないか」を考えている。しかし、相手からも話を聞いてみると、まったく違う考えで好感を持っていることがわかりましたので、それを伝えて事なきをえました。
仕事での悩み
また、あくまで一般論ですが、とても仕事ができる人が、自分の成果物に満足できなくなって、心を病んだり、命を落としたりするという哀しい話を耳にすることが何度かありました。研究者という特殊な領域にいることは重々承知していますが、これは別に研究だけではなく、専門性が高い領域でままおこることのようです。
スカウターの世界からの脱却
一概には言えないけれど
この二つの話を聞いたときに思い出したのが、上記のスカウターとスタンドの対比でした。一概にはいえないけれども、少なくとも恋愛相談をしてきた友人の話の違和感は、「彼女はスカウターをはめていたから」で説明できるのではないかと思うのです。スカウターで、彼と自分の能力をピピピ。こちらは100、でも相手は10万もある。これではまったく見合わない・・・そう考えている様に聞こえたのです。
改めて問いかけてみた
そんな彼女に、「彼のどんなところが凄いのか」を改めて聞いてみました。ものすごく頭の回転が速いこと。意欲的な仕事をいくつも成功させていること。確かに、それらは普段我々が聞いている「凄い人」のイメージです。そして、カウンターパートの彼にも、彼女のどんなところに惹かれたのかをきいてみました。それは、「自分に見えないことを教えてくれるから」「まさに生き生きと飛び立とうとしている所にひかれる」と。それ以上はシャイな彼から聞き出すことは難しかったけれども、観点が違うことや、成長途上にあることそれ自体に惹かれていることがよくわかりました。彼は彼で、スカウターの世界とは全く違う尺度で彼女のことを評価していたように思います。
時間経過による劣化なのか、変化なのか
また、優秀な人ほど陥りがちな、過去の自分の成果物との比較。もちろん、客観的にみてどうしても過去の自分を超えられないということはあると思うのです。でも、劣化なのか、変化なのかは形にしてみないと分からない。自分のもっているスカウターはもう役に立たず、全く別の方面から評価されうるかもしれないのです。それに、いまの尺度が後にどうなるかなんて誰にも分からない。
スタンドの世界へようこそ
堀さんの記事に戻ると
冒頭の堀さんの記事は、次の言葉で締めくくられています。
そしてテクニックを尽くした先に立ち上がってくる自分の「本当の能力」を意識しましょう。それがブログの楽しさでもあり、読者としても読まずにはいられない魅力なのです。
書いているうちに、テクニックによる工夫を尽くした後に立ち上がってくるもの。それが自分の魂の色であり、「本当の能力」なのです。ブログを書き続ける、作品を投下し続けることは、それを読む人々―書いている途中あるいは書き終わった後の自分も含む-からのフィードバックをうけます。フィードバックを受けることで、どんどん自分の色が見えてくる。それを言いたいのだろうと思います。
「唯一の色」を生み出す組み合わせ
他と比べて違っている、というのは、相対的なものの見方かも知れません。「たしかにこの集団ではひとりかもしれないけれど、他にもいるんじゃないかなこんな個性」と思うかもしれません。
けれども、過去の自分や未来の自分との組み合わせや、読者として関わってくれる人々との組み合わせによって、生み出される色は無限の可能性を持つのではないでしょうか。
スタンド使いの闘い方
思えば、ジョジョ第3部以降の闘い方では、相手の能力とこちらのメンバーの能力の組み合わせで、実に様々な闘い方が生まれています。あまり詳しく書くと長くなるしネタバレになるので控えますが、相手の能力の特徴を見抜いていくこと、そしてそれに応じ自陣営の能力を組み合わせていく展開は本当にエキサイティングです。
スタンド使いに共通の能力=スタンドが見える
さらに、重要なことは、スタンド使いにはスタンドが見える、ということ。見かけや職業に囚われずに、相手の「本当の能力」を見る力そのものも重要です。現実の世界でも、自分のスタンドを見つけることができれば、他の人のスタンドも見えるようになるのではないでしょうか。逆も然りで、他の人の隠された力に気づくことが出来れば、自分の良いところも見えてくるのではないでしょうか。
ちょっと無理矢理すぎたでしょうか。ゲームやマンガの設定でリアルを語ろうとするのは悪い癖なのですが、やめられません。長々とした文章におつきあいいただきありがとうございました。当たり前過ぎるような気がしてきましたが、語らずにはいられませんでした。
夏の夜の暑さにうかされながら、今日もカフェパウゼを。
「自分のやり方」を見つける喜び
10年ごとの区切り
私事ですが-まあ、このブログいつも私事しか書いていませんけど-、今日、30歳になりました。といっても平日なので、いつものように出勤して・・・
ただ、ちょっと早めに職場を出て、夫と買物したらいつものように道路の穴ぼこにけつまづいて盛大に足を捻って(たぶん人生で30回以上やらかしています)、ひいひい言いながら夕飯をつくり、ようやく腫れが引いてきたところ。30歳になってもドジは治らないし、まったくもって平常運転であります。
それでも、10年一区切りと言いますか、この歳になるというのは、いつもの誕生日よりもひしひしと感じ入るものがあります。まずは母親に電話で感謝を述べて、今日一日は、この10年で自分に起きた変化、自分がつかんだものを一言で言えば何になるだろうか、と考えていました。
二十歳のころ
サークルの合宿中だった
10年間の変化を考えるのであれば、20歳の頃の自分はどうであったかを思い返してみるのが手っ取り早い。残念なことに、旧ブログを始めたのは22歳の誕生日が目前に迫った頃でしたから、20歳になりたての頃の日記というものは残っていません。当時、まだ私は大学2年生でした。ちょうど、今の夫とつきあいだした頃だと思います。
法学部に進学予定のコースに入ったものの、まだよく分からないまま授業を受けて、来たるべき定期試験にドキドキする。そういいながらも、2年間限定のサークル(ESSという英語サークルでした)はしっかりやって・・・20歳の誕生日は、サークルの合宿中、それもディベートや英語劇の準備をしているときに迎えたのでした。
その頃の自分には、まだ何もなかった。何者でも無かったように思います。好奇心旺盛に、いろいろなことに手を出して・・・でも、まだ何者でもなかった。
法学部進学後に
今振り返って、人生の転機になったように思われる時期は、学部3年生(21歳)の頃でした。この頃に、いま自分が専攻している学問分野に出会った。しかし最初はひどいものでした・・・わからない、本当にわからない。困ったとき、とんでもなく良く出来る同期と一緒にゼミを始めたこと、そして、わからないからと先生に夏休みに質問に行ったことで、大きく人生が変わった気がします。
ああ、人に教えられたり、教えるためにまとめたりすることが私は好きなのだ。自分のために勉強するのは飽きっぽくて長続きしないけれども、人と話すために何かにうちこむのはとても好きなのだ。そう気づいた瞬間でした。それは、ひたすら分からない顔をしながら聞いてくる学生に対して、もっと置いてけぼりにするような勢いでまくし立てる先生とか、あの手この手で質問してくる同期とかとのやりとりで気づいたことでした。
人生が愉しくなったきっかけ
のめり込むドライブ感
このノート作りは、非常に非効率です。何人かのノートを集めて、複数冊の基本書(法学部の教科書はどれも分厚い)を読んで、ときには先生が元ネタにしたと思われる論文も読んで・・・挙げ句の果てには予想問題までつくってその回答例まで作っていました(よくこんな時間あったな)。それを、仲間に放流して返ってきた質問に答えたり、また質問を投げ返したり・・・。これが愉しかった。愉しくて仕方がなくて、ゼミにも出たし、仲間との自主ゼミもした。そして、気がついたら研究の道を志していました。ここから先は以前にも書いたので繰り返しません。やはり、21歳になった直後の夏、学部3年生の夏。あのときにのめり込むドライブ感を得たからこそ、ここまで来たのだろう。
実は・・・それまで嫌いだった
実は、学部3年の春は、どうしても法学が好きになれませんでした。どうしていいのか分からない。あんなに頑張ったけど成績も良くなかった(民法1なんてゼミに入れたから大丈夫だろうと思っていたら、ふたを開けてみたら良でしたし。どうも、成績採用ではなくて、奥様が志望理由を気に入ったからだというのは後になって聞かされました)。正直、法学部に進学してよかったのだろうか、と考えていたのです。
自分のやり方=凝り性な「ノート」を「仲間」とつくる
それが、大きく転換したのは、「ああ、このやり方が自分に向いているのだ」と気がついたからでしょう。とにもかくにも、「仲間」と一緒に「ノート」をつくる。他力本願のように聞こえるけれども、自分も寄与しなければプライドにさわる。また、どうせならば相手にとってもどきっとするような質問をしてやろう。こういう双方向性は、同期だからこそやりやすかったと思います。
20代で得たこと=「自分のやり方を見つける」喜び
ブログ、SNS、そして
思えば、ブログを始めたのも21歳になってからでした。これも、最初は手探りでしたが、気がつけば「仲間以外の人にも見せるノート」となって、新たな仲間を呼び寄せるようなツールへとどんどん変貌していきました。博士課程に上がってしばらく経って、twitterを開始。そして、時期をみて、このブログとして再開。そのあとは、SNSごとの特徴をつかみながら、研究会をしたり、イベントをしてみたり・・・と今に続いていきます。「仲間」も広がっていき、そして「ノート」も形を変えて、ブログになったりイベント記録になったりと様々。でも、やっていることの本質は変わっていないようにも思います。
「コレが自分のやり方だ」と思えるまでの辛抱
さいしょは手探りでも、「たぶんこの先に自分のやり方がある」「自分のやり方さえ見つかれば、そこから色々なものが溢れ出るはず」という確信を得ていたからこそ、愉しんで取り組めたのだと思います。あくまで「思い返せば」ですけれど。この確信をドライブ感として得ていたからこそ、他のことにも取り組めたのだと思います。
30代には?
そう考えると、これから先の10年には何を得るのだろう?何を失うだろう?・・・考え込んでいても仕方がないので、これからも愉しい何かを見つけていこうと思います。
あえての旧ブログスタイル
まとまりのない書き方になりました。実は、今回は旧ブログである「Kaffeepauseの日記」と同じやり方で書いています。なんてことはない、「日記」ですから、思ったことを下書きなしに、そしてどちらかというと私事中心で書いていくというスタイルです。まとまりがなくてすみません。でも、久しぶりにやってみるのも悪くないですね。
今回は過去の自分とカフェパウゼをするかのように書いてみました。これからも色々と手を出したり、育てたり、育ったりしていきます。どうぞよろしくお願いします。